植松努


プログラム第1日目第2講座にて講演株式会社植松電機 専務取締役 植松努氏

1966(昭和41)年北海道芦別市生まれ。89年北見工大応用機械工学科卒業後、菱友計算株式会社航空宇宙統括部に入社。94年5月同社を退社し、植松電機入社。99年に植松電機を株式会社に改組し専務取締役に就任。バッテリー式マグネットでトップシェアを獲得。2006年12月、株式会社カムイスペースワークス(略称:CSW)を設立し、代表取締役に就任する。

  • ロケットの開発
  • 微少重力の実験(宇宙空間と同じ無重力状態を作り出すことができる)
  • 小型の人工衛星の開発
  • アメリカ民間宇宙開発企業との協同事業

現在は全国で企業研修や講演活動をしながら、北海道経済産業局の理科実験教室プロジェクトの特別講師として小学校でロケット教室を開いたり東奔西走の日々。

● 植松努さんの公式サイトはこちら

北海道赤平市にある株式会社植松電機。現在、社員数18名のこの小さな会社で、次世代スペースシャトル用のエンジン開発が進められており、今年中にも打ち上げ実験が行われようとしています。

「『どうせ無理』、こんな言葉が今の世の中、あちこちから聞こえてくる」と植松電機専務の植松努さん。「『どうせ無理』、この言葉ほど人の心を、特に子供の心を殺してしまう一言はない。未来を担う子供たちのために「どうせ無理」を世の中からなくしたい。

それなら、「どうせ無理」だと思われていることを、北海道の片田舎にある町工場がやってやろう」植松さんは、そんな想いをこのロケット事業に託しています。

植松努
ロケット開発は一本の電話から始まった!

2004年6月、「実は爆発しないロケットエンジンを作っているのですが、実験する場所がなくて困っています。工場の用地をお借りできないでしょうか?」と、北海道大学の教授から電話が入りました。

「爆発しないロケットエンジンってことは、自分たちでつくれるということですか?」と聞き返したら、「そうですよ、今、北大農学部の裏で作っていますよ」と言われて......。「本当にそんなことができたらすごい。ぜひ、赤平にいらしてください」ということになって、そこからいろいろなものが転がり始めたんです。

■ では、その一本の電話がかかってくるまでは、植松さんの頭の中にも、宇宙開発やロケット開発をするという考えはなかったのですね?

そうですね、全然なかったですよ。「無理」だと思っていましたから。「無理」と言ってはいけないんですけど(笑)。普通にロケットエンジンなんか作ったら危ないですから......。でも、「爆発しない。安全。学生が作れる」ということになれば話は別です。これはもう千載一遇のチャンス、「逃したらいかんな」と思ったのです。

実は、私自身、前の仕事で航空宇宙の仕事をやっていたのですが、日本の航空宇宙の仕事はもう駄目だと思っていました。未来がないのです。産業自体が小さいためにビジネスとしても成立しないし、就職するところがない。子供たちに自分の好きな飛行機のことを教える一方で、その関係で働くことは難しいという現実に対するジレンマがあったのです。でも、このロケットエンジンと出会って「関連事業を作り出すことができる」と気づいたんです。

ロケットとか宇宙開発を国家プロジェクトではなくて、自分たちの力でプロジェクトにしてしまえば、それに関わる人たちを増やしていける、それを教育に役立てることができればもっともっと多くの人が関われるようになる、そう思うようになりました。

それで「先生、いつから実験をはじめるの?」と聞いたら、「予算がないから、まだわからない」という答えが返ってきたので、すべて私たちの会社で受け持つことにしました。これがまたチャンスだったわけです。

植松努 氏

もしも、その教授に潤沢な予算があったら、自分たちはただ場所を貸すだけで終わっていたかもしれません。プロジェクトに予算がついてなくて「いつできるかわからない」という状態だったからこそ、自分たちが積極的に関わっていけるチャンスだったのです。

それから、自分たちの工場で失敗を繰り返しながら安全なロケットエンジンの開発を進めました。現在では、アメリカのロケットプレーン・キスラー社と共同で次世代スペースシャトル用の研究を行うまでに研究が進んでいます。ロケットプレーン・キスラー社との出会いは、「まぐれ」としか言いようがあいません。

でも、「まぐれ」というのは、きっと神様の「あなたとあなたは会ったほうがいいよ」というお導きですから大事にしないといけない。そして、「まぐれ」に出会ったときに身の振り方がわかるだけの準備運動をしておくことが大切です。「まぐれ」に出会ったときに、躊躇することなく即座に石を踏んで跳べるかということが大事です。

私も前職で飛行機の仕事を諦め、「自分はもう二度と飛行機の仕事をすることはないだろう」と思っていたのですが、実は飛行機の本を一冊も捨てずに全部持って帰ってきて、そのあとも飛行機関連の本を買い続けて、読み続け、調べ続けていたのです。そのおかげで10年経っても最新の飛行機技術や情報から遅れることもなく取り組むことができました。

きっと子供は親を喜ばせたくて生きているのです

■ それほど飛行機が好きであったのは何か理由があったのでしょうか?

いろいろな要素があったと思います。うちの両親は樺太に住んでいたことがあり、技術者だった関係でロシア軍との付き合いがありました。昔から「戦車に乗せてもらった」とか「飛行機に乗せてもらった」とか、そういう話をよく聞かされていましたね。また、工場で働いていた親戚もプロペラ機を作っていて、「ゼロ戦の整備もしたんだよ」なんて話を物心つく前から聞かされて、知らない間に飛行機を身近に感じていましたね。

それから、じいちゃんと一緒にアポロの月面着陸の瞬間をテレビで見たことをよく覚えています。アポロの月着陸の瞬間、私はテレビの前でじいちゃんの胡坐の中に座って実況の中継を見ていました。当時三歳だった私は、テレビの内容までは覚えていませんが、じいちゃんが「ほら見れ、ほら見れ」と喜んでいたことを今でもはっきりと覚えています。三歳の私は、きっと、じいちゃんが喜んでいることが嬉しかったのだと思います。

だから、その後、飛行機の本を手に取ると、じいちゃんが喜ぶことを覚え、飛行機の本を手に取り続けた。飛行機の名前を覚えるとじいちゃんが喜ぶと思ったから飛行機の名前をたくさん覚えて、いつのまにか飛行機が好きになってしまったのでしょうね。

「三つ子の魂百まで」といいますが、きっと子供は親を喜ばせたくて生きています。それが原動力なのです。だから、そういう気持ちを親が摘んでしまことは、決して、やってはいけないことだと思います。そんな思いを強く持つ出来事との出会いが、今の私やロケット事業の始まりにつながっています。

自分の未来を信じられない人は、他人の未来も信じられない

その出来事は、2003年暮れのことでした。私は地元の青年会議所に入っていたため、年末、ボランティアに参加する、という話が持ち上がりました。実を言うと、少し面倒くさい気持ちもあったのですが、「そういうこともやっておかないといけない」と思って参加することにしました。

ボランティアの内容は、児童養護施設の餅つき大会でした。子供たちとのふれあいを考えて、子供用の杵も用意して施設に到着したのですが、行った先で言われたのは「この子たちには絶対に触れないでください」という言葉でした。

「なんで?」と聞いたら、「この子たちはひどい児童虐待に遭って、家に帰すと親に殺されてしまう可能性もある子なのです。中には性的暴行も受けている子供もいるから、知らない大人に触れられるだけでパニックなってしまう子もいますので」と説明されました。

餅つきは始まりましたが、シーンと静まり返った体育館の中で、子供たちは体育館の向こうの壁に張りついて、手拍子も合いの手も何もない状況です。子供たちはみんなかわいらしい子で、とくに女の子が多くて、どんな目に遭ったのか想像するだけでもつらかったですね。

そのうち、小さな子供たちが近づいてきて、「ちょっとついてみるかい?」と餅つきをしながら聴いたら、だんだんそばまで寄ってきて、一緒に餅つきをはじめました。最後には、みんなで雑煮やきなこ餅を作って食べながらいろんな話ができるようになっていました。いざ帰るということになったときは、おんぶに抱っことかしていましたから「帰らないでくれ、帰らないでくれ」とせがまれて、それはもう大変でした。その頃には私たちも彼らを普通の子供と思っていて、「今日はいいことしたね」といい気分に浸っていました。

ところが、そのとき、一人の男の子が「僕、赤平出身なんだよ」と言って、「僕の家、知ってる?」と聴いてきました。「ちょっとわからないな」と答えると、「それなら、あそこ知ってる?じゃ、あそこは?」と、まるで、頭の中に自分の家に帰る道のりが浮かんでいるかのようでした。「家にはお父さんがいてね、お母さんがいてね。ちょっと今は会えないんだけどね。でも、もう少ししたら会えると思うんだ」と言っていました。

それを聞いていて、「お前、殺されるような目にあったのに家に帰りたいんだな、親に会いたいんだな」と思って、やりきれない気持ちになりました。「施設に寄付してもしょうがない。連れて帰って、うちの子にしてもしょうがない」と、餅つきから家路までの間中、いろいろなことを考えました。植松電機を辞めて、その施設で働くこともかなり真剣に考えたのですが、それでは根本的な解決にはなりません。

結局、「何が原因なんだろう」ということを必死に考えているうちに、自分の小さい頃のことが思い出されてきました。「そんな紙飛行機ばかり作ってないで勉強しろ」とか、「お前に飛行機作りなんてできるわけがない」なんてことを散々言われていたことを思い出し、そのように言う大人の意見はみんな間違いではないかと思うようになりました。それらはすべて未来に対する憶測でものを言っているわけですから。

「どうして、その人たちはそんなことを言うのだろう」と考えたら、「きっとその人たちは、自分の未来を信じられないからなのだろう」と思って、「自分の未来を信じられない人は、他人の未来も信じられない。その結果、他人の未来も奪うような言動をしてしまうのではないだろうか」と考えたのです。

それなら、「未来を信じない人たちをなくせばいい。未来を信じない人たちの共通項は何だろう?」と考えたら、"どうせ無理"という言葉に行きつきました。「この"どうせ無理"という言葉を世の中から撲滅すればいい」と。そして、「誰もが"どうせ無理"と思うことを、"そんなことできるよ"と言ってやって見せればいい、やってみせるしかないのだ」と強く思うようになったのです。

おそらく最高の価値は人間にある

■ それほど飛行機が好きであったのは何か理由があったのでしょうか?

今、やっていることは結果オーライ的なところがあってわからないですが、きっと「真理が大切だ」と思います。真理に沿ったことをやっていればきっと結果はよくなると思います。例えば、植松電機のマグネット製品の成功要因の一つは、エネルギーを食わないことなんです。普通のマグネットは、動かすために専用の発電装置が必要になりますが、うちの製品はパワーシャベルにくっつけて、余った電力だけで動かせるのです。

便利な上に二酸化炭素排出がないわけです。環境保護という時流から考えて、これはきっと生き残ると思っています。ビジネスの世界でもそれ以外でも、きっと真理を追求すれば、例え馬鹿売れすることはなくても続いていくと考えています。

今、自分が追求している真理は、おそらく最高の価値は人間にあるということです。今後は、まともな人間を育成することがビジネスにとって最大の力になるだろうと思います。社会に足りないものを提供するのがビジネスだとすれば、今、社会に足りないものとは何でしょうか?それは、まとまな人間だと思っています。

まともな社会観や就労観を持っている人が少なくなってきている状態ですから、人を育てることに取り組めば、きっといいことが生まれるはずです。そして、その種になるのが宇宙開発だろうなと考えているのです。

宇宙開発に触れた人間は、「俺でも宇宙開発できたからね」という素敵な勘違いをして、他のことでもできるようになるんですよ(笑)

うちの会社の社員も宇宙開発の仕事をした後に、農業やその他の分野の仕事も勝手にやるようになりました。いろいろな困っている人たちの話を聞いてきて改良するんです。「ビジネスというのは、今をもっとよくするということであり、今の状態を維持するのはビジネスではない」と私は思っていますので、そうした改良はきっとビジネスになります。

より良くする、やらなくてもいいことでも一生懸命やっていくことが大切で、それに宇宙開発が当てはまると思っています。こうした勘違いは、小さい頃や若い頃に接したほうがきっといいですから、今、読書普及協会の協力も得て全国でロケット教室を行っています。

参加してくれた子供が少し大きくなって「僕は小学生のときにもうロケット作れたからね」とか「人工衛星作れたからね」なんていう勘違いをしてくれたらいいと思っています。

■ 最後に子供や社会に向けてのメッセージをお願いします。

夢とは、大好きなこと、やってみたいこと、社会に役立つことと考えています。子供たちが一番してはいけないことは、就職情報誌から仕事を選んだり、夢を職業から選ぶことです。そうすると仕事は報酬のために、いやいや働くことになってしまいます。だから、夢を仕事にするべきです。


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